青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年

第1部 三百代言と呼ばれて

第5話 自治を勝ち取る——弁護士法第1条の誕生

敗戦の年、昭和20年8月。東久邇宮内閣の司法大臣に、一人の弁護士が就いた。かつて翼賛国会で最も痛烈に大政翼賛会の違憲性を衝いた岩田宙造である。

岩田は在野の宿願・法曹一元の実現を審議会に諮った。だが同年12月、判事検事の任用資格をめぐる採決は5対6——ただ一票の差で否決される。制度で敗れた岩田は、人事で押した。翌21年2月、検事総長に弁護士・木村篤太郎、司法次官に弁護士・谷村唯一郎。新聞が「司法部 首脳一新」と報じた、世にいう岩田人事である。しかし岩田自身が公職追放となり、この試みは半ばで潰えた。

制度は、人事では変わらない。ならば法律を——弁護士たちの本当の闘いは、ここから始まる。

昭和21年9月、司法省にようやく弁護士法改正準備委員会が設けられた。委員27名のうち弁護士は14名。数の上では初めて、弁護士がテーブルの多数を占めた。

ここで弁護士側は、歴史に残る戦術を採る。要綱を出して役人に条文化を委ねれば、立法化の過程で骨抜きにされる虞れがある——弁護士側はそう見抜いていた。ならば、最初から全部条文で書いて突きつける。東京弁護士会館の一室に連日集まったのは、真野毅(二弁)、庄野理一(東弁)、島田武夫(一弁)の3人である。島田の回想が、その部屋の空気を伝えている。

「かなり骨の折れる仕事であったが毎日のように東京弁護士会館の1室に集まっては熱心に討議を重ね……現行法の第1条にある『弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする』という文句も、このとき真野がいいだしたもので、これでよかろうということできまった」

(百年正史p.152)

「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」。今日、すべての弁護士がその名において仕事をするこの条文は、官僚の起草ではない。弁護士会館の一室で、弁護士自身が書いた。

だが、眼目である「司法大臣の監督廃止・弁護士会による登録と懲戒」への道は、四方八方からの砲火にさらされた。

最高裁判所は、憲法の規則制定権を盾に、弁護士に関する規則は最高裁の権限であり法律事項ではないとする違憲論を唱えた。大蔵省と特許庁は、弁護士が当然に税務・特許業務を行える条項に反対した。検察は「全国検事長一同」の名で反対決議を突きつけた。政府提出は絶望的となり、弁護士会は議員立法に活路を求める。衆議院の法務委員会では、法務総裁や最高裁判事を相手に、一弁の島田武夫が食ってかかるように渡り合った。当時の東弁会長・水野東太郎は「噛みあうような喧嘩をやったのです」と回想している。

占領軍はどうだったか。GHQで法案審査にあたったオプラーは、後年こう書き残した。

「弁護士会自体が最大限に可能な独立を獲得するために、喜ばしいほどの熱意を示したので、私達は何も押しつける必要がなかった」

(百年正史p.152所引)

弁護士自治は占領軍の贈り物だった、という通説がある。当のGHQ担当者が、それを否定している。押しつける必要がないほどの熱意——それがこの法律の推進力だった。

昭和24年5月。法案は衆議院を通ったが、参議院で修正を受け、会期末が迫った。両院協議会を開く時間はもうない。

5月30日、衆議院本会議。参議院の修正案を否決したうえで、出席議員の3分の2以上の特別多数で原案を再議決するという、乾坤一擲の手が打たれた。可決の瞬間、国会に詰めかけていた弁護士会の関係者は万歳を唱えたという。6月10日、弁護士法公布。法律第205号。

司法大臣の監督は消えた。弁護士の登録も懲戒も、弁護士会と日弁連が自ら行う。国家機関の監督を受けない強制加入の専門職団体——世界にも稀な完全自治が、ここに成立した。ときの一弁会長・伊勢勝蔵は、会誌にこう書いた。

「吾等弁護士は今、新弁護士法によって与へられた賜を抱いて陶酔すべき秋でない。この大なる権利と自由、高貴なる地位を完全に保持せんが為めに、更に一段の緊張と覚悟を新たにし……」

(一弁会史p.375)

祝杯の言葉ではなく、警句である。獲得の日に、維持の困難を予言していた。

新法は9月1日施行。その日までのわずか3か月で、全国の弁護士会は日本弁護士連合会を作り上げねばならなかった。組織論をめぐる激論の末、7月の設立者総会を経て、初代会長には有馬忠三郎(元一弁会長)、事務総長には江川六兵衛(一弁)。事務所は第一東京弁護士会館の3階、職員12名。金色の向日葵に天秤を配した徽章が、全国5,918名の弁護士に配られた。ひまわりの徽章の誕生である。

自治は、成立の前から試されていた。

昭和23年2月、公職追放をめぐる平野事件で、GHQは東京地裁の仮処分決定を真っ向から否定した。「日本の裁判所には裁判権はない」——民政局長ホイットニーの書簡に、最高裁長官は「裁判権のないものの裁判として無効と認める」との談話で応じ、東京地裁は「連合国最高指令官の指令により」自らの決定を取り消した。司法権が、占領権力の前に屈した瞬間である。

その4か月後、今度は弁護士会が試された。

6月1日午後4時、GHQ民政局。ケーディス大佐は東弁会長・長野国助を呼びつけ、平野の代理人だった弁護士・戸倉嘉市を即刻除名し、新聞広告で公表せよと命じた。裁判所も政府も逆らえなかった占領軍の命令である。長野の手記が、その場のやりとりを残している。

「余は仮に貴官のいわれる如き不都合な所為が戸倉君にあったとしても東京弁護士会の会則では懲戒委員会にかけなければ処罰できない。会長の一存で除名などできないというと、それではすぐに会則を改正せよ、余はこれを許可するというのである」

(東弁百年史p.634-635)

会則を変えろ、私が許可する——占領軍の論理に対し、長野は「百方弁疏して」踏みとどまった。会に戻ると常議員会に特別委員会を設け、独自に事情を調べ、戸倉の役職辞任という形で事態を収拾する。新聞広告は、ついに出さなかった。

除名を命じられて、手続を盾に拒む。司法権すら屈した相手に、弁護士会は「懲戒は会則に基づく手続による」という一線を守り抜いた。獲得されたばかりの弁護士自治は、最初の実地試験に合格したのである。

それから約30年後の昭和53年、この自治が根底から揺さぶられる日が来る。弁護人抜き裁判法案——刑事法廷から弁護人を排除できる法律が国会に提出され(廃案は翌54年)、弁護士会は存亡を賭けた闘いに立つことになる。その最前線に立った人々が、どこでどう育ったのか。それを描くには、弁護士会の中に生まれた「派閥」という不思議な生き物の話をしなければならない(第2部へ続く)。

一弁の百年史は、序言にこう刻んでいる。

「弁護士自治は決して不磨の法典に基づくものではなく、弁護士・弁護士会が国民の信を得られない行動を取った時には、法律の改正によって消滅することがある」

現代への視線

自治とは獲得の物語であると同時に、維持の物語である。そして維持を担うのは、制度ではなく人である。要綱ではなく条文を書いた真野毅。獲得の日に警句を書いた伊勢勝蔵。占領軍に「会長の一存で除名などできない」と言い切った長野国助。——その時々に、そう言い切れる人物を持てるかどうか。すべてはそこにかかっている。

出典・注記

  • 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
  • 東弁百年史=『東京弁護士会百年史』(東京弁護士会・1980)p.560-586, 633-636(司法制度改正審議会、岩田人事、弁護士法成立、日弁連設立、平野事件・戸倉事件)
  • 一弁会史=『われらの弁護士会史』(第一東京弁護士会・1971)p.341-342, 365-376(条文化戦術、国会審議、成立)
  • 百年正史=『われらの弁護士会史 創立百年正史』(第一東京弁護士会・2023)p.123-124, 138-160および序言(岩田人事、オプラー回想、日弁連設立、序言の引用。序言部分には頁付がない)
  • 引用中の「……」は中略を示す。
  • 岩田宙造の司法大臣在任は昭和20年8月〜21年5月。法曹一元否決は昭和20年12月18日、岩田人事は昭和21年2月。