青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年
第3部 ダモクレスの剣の下で
第1話 二割司法——改革は外からやってきた
平成の司法制度改革は、理念から始まったのではない。人事の悩みから始まった。
昭和末期、司法試験は毎年25,000人前後が受験して500人ほどしか受からない超難関と化していた。合格者の平均受験回数は6回、平均年齢は28〜9歳。30歳で任官した検事は「自分より5、6歳も年下の先任者に決裁を仰ぐ場面に、検事生活の間ずっと、行き当たる」。検事のなり手がいない——法務省が昭和62年に法曹基本問題懇談会を設けた直接の動機は、この採用難だった。
だが翌年まとまった懇談会の意見書は、人事問題を超えて、法曹界全体の病巣に踏み込んだ。
「法曹は国民から縁遠い存在になっている」
本来法曹の手で速やかに解決されるべき問題が、長期間放置されるか、法によらない不合理な方法で処理されている——。診断はすでに、四半世紀後の改革をすべて予告していた。処方箋は、まず合格者の増員である。
日弁連は当初、増員に抵抗した。切迫した状況ではない、と。法曹三者協議の場で消極姿勢を厳しく批判され、平成2年の三者合意で合格者の段階的増員(600人程度、さらに700人程度へ)を受け入れ、その後も増員の積み上げが続く守勢の展開だった。平成9年3月には、合格者を約1,500人に増やす方向で三者協議の結論を出すよう求める閣議決定までなされ、外堀は着実に埋まっていく。この守勢の弁護士会の空気を変えたのが、平成2年に会長となった中坊公平である。中坊は「市民のための司法改革」の旗を掲げた。
「『司法改革』は、基本的に市民が実現するもの……官側が主導権をもつ改革ではなく、市民サイドにたつ私達弁護士が自ら改革の構想を策定し」
(百年正史p.301所引)
勇ましい旗である。会史も「中坊が立てた旗はそんな劣勢を挽回する効果をもたらした」と認める。だが、この旗の下で実際に何が起きたかは、結果から検証されなければならない。「市民サイドに立つ」という言葉は、やがて、外から突きつけられた要求を弁護士会自身の構想と呼び換えるための看板として機能していく。抵抗をやめた組織は、たしかに「主導権」を握ったように見えた。しかしそれは、外圧の敷いた線路を走り出した列車に、自ら先頭車両から乗り込んだという意味での主導権だった。
一方、外の圧力は年を追って高まった。平成6年、経済同友会が放った一言は、以後の改革論議の合言葉になる。
「日本の司法が『2割司法』と揶揄される最大の原因は法曹人口が極端に少ない点にある」
司法は本来果たすべき役割の2割しか果たしていない——。規制緩和の推進論者たちは「事前規制から事後チェックへ」の受け皿として司法の拡充を求め、平成10年には経団連が50年余りの歴史で初めて司法制度への意見書を出した。自民党の司法制度特別調査会は、報告書でこう宣言する。
「従来のように法曹三者を中心とする論議に止まることなく……われわれが国会において論議を尽くし責任を果たす」
しかも、この政治主導の検討課題には、当初「弁護士の法律事務独占」と「弁護士自治」の見直しが含まれていた。日弁連は「これらの削除を求めて懸命に関係議員の説得活動を行った結果、ついに検討課題から削除された」(『日弁連六十年』)。改革の俎上には一度、自治そのものが載っていたのである。後年の公式記念誌は、こうなった経緯を率直に認めている——「このような法曹人口をめぐる法曹三者間の合意の困難性、弁護士会の消極性は、のちに司法制度改革審議会によって、『法曹三者合意』による解決の枠組みそのものが否定される要因となった」。
法曹三者の内輪の話し合いから、政治主導へ。皮肉なことに、この流れに最も冷淡だったのは最高裁だった。後の改革審議会のヒアリング(平成11年12月)でも、最高裁側の説明は、「2割司法」「機能不全」といった総合的評価に直接対応する施策は考えにくい、という素っ気ないものだった。変化を求めたのは在野と市場と政治であり、司法官僚ではなかった。
政治も動いた。平成8年、橋本龍太郎首相は「火だるまになっても行政改革をやりきる」と宣言し、規制緩和の総仕上げとして司法の拡充が位置づけられていく。
平成11年7月、司法制度改革審議会が発足する。会長は憲法学者の佐藤幸治。委員13人のうち法曹関係者は3人だけで、経済人、労組役員、消費者団体役員、作家までが並んだ。佐藤会長は審議の早い段階で明言している——「司法の拡充の中でも重要なのは弁護士の問題であろう……とりわけ『弁護士の在り方』をこの審議会は最重要の課題として検討する必要がある」。俎上に載せられたのは、裁判所でも検察でもなく、まず弁護士だった。そして議事の透明性は、かつての臨時司法制度調査会と決定的に違った。会史の表現を借りれば「非公開で顕名の議事録を後日公開しただけの臨司とは180度違った」——議事録は首相官邸のホームページで公開され、後には記者向けのビデオ実況まで行われた。
「弁護士の在り方」を担当したのは、ほかならぬ日弁連元会長の中坊公平である。だが中坊が審議会で果たした役割は、古巣の擁護者ではなかった。むしろ、その逆である。
中坊のまとめた報告——「中坊レポート」——は、弁護士界の現状を、利用しにくい、職域が狭い、職務の質に問題がある、社会からの信頼が薄い、と外部の批判者より容赦なく断じたうえで、必要な弁護士人口を「現状の3〜3.5倍にあたる5〜6万人」と明示した。そして平成12年8月の集中審議で、司法試験合格者を年3,000人とする私案を提示し、こう付け加えたのである。
「私としては、正直言って少なめの数字なんです」
(百年正史p.319)
この数字に、会内の合意はどこにもなかった。百年正史の筆致は端的である——「弁護士の多くが反対する大幅増員を日弁連元会長が敢てブチあげた中坊レポートの効果は絶大だった」。効果は絶大。つまり、増員圧力に最も重い一撃を加えたのは、外部の敵ではなく、身内の元総大将だった。最終意見書はほぼそのまま3,000人目標を採用する。
変転は数字にとどまらない。日弁連が長年の悲願である法曹一元の提言を審議会に出したとき、審議の場でその論理を難じたのもまた中坊だった——「弁護士で一番間違っていたのは、司法を担うと言いながら、常に在野性を誇ってばかりいて、(司法を)官と民に分けていること」。三百代言以来の「在野」の歴史(本連載第1部)を読んできた読者には、元日弁連会長のこの言葉の意味が分かるはずである。他方で中坊が弁護士自治の意義と獲得の苦難を熱く説いたときには、「他の委員たちが聴き入ったようには感じられない」と百年正史は記す。外に向かっては身内を斬る言葉がよく通り、身内の核心を守る言葉は誰にも届かない——内と外で言葉を使い分ける指導者を戴いた組織は、最も高い授業料を払うことになる。
後日談がある。日弁連が平成21年に刊行した五百頁を超える公式記念誌『日弁連六十年』に、中坊公平の名はわずか2か所——審議会委員名簿の紹介と、当時の会長の談話の中——にしか登場しない。中坊レポートも、3,000人私案も、一切書かれていない。改革の最大の推進者を、名前だけ残して論争ごと消す。組織が自分の物語を正面から語れなくなったとき、公式の歴史はこうして薄くなる。
この構想を承認する場となった平成12年11月1日の日弁連臨時総会。執行部は副会長を先頭とする「キャラバン隊」で全国を回り、会員の理解を求めたうえで臨んだが、議場は大荒れとなり、審議は8時間を超えた(百年正史は「9時間近く」と記す)。承認された執行部案は、「国民が必要とする適正な法曹人口」として「概ね五万人程度」を将来目標とするものだった——同じ総会で、法科大学院制度の受け入れも承認された。年3,000人という数字そのものは、この総会決議ではなく、翌年の審議会最終意見書と平成14年の閣議決定によって確定していく。翌日の日経新聞社会面には「議長席に詰め寄る弁護士」の写真が載った。8時間の紛糾は、会内の合意形成が追いつかないまま「会の構想」が外で確定していく手順そのものへの、現場からの悲鳴でもあった。
平成13年6月の最終意見書を受けて、政府の司法制度改革推進本部はわずか3年で関連法24本を成立させた。廃案はたった1本。法科大学院、裁判員制度、被疑者国選、法テラス——現在の司法の骨格は、この3年間に一気に作られたものである。十余りの検討会が同時進行するこの時期の会内の空気を、『日弁連六十年』は率直に書いている。
「日弁連・各弁護士会にとって、外の動きはまさに『激流』であり、他方、会内は法科大学院、弁護士制度改革など先行きが十分に見通せないため、『不安』いっぱいの状況になった」
不安の中身として名指しされているのが、法科大学院と弁護士制度改革——本連載の次話以降の主題そのものであることに注意してほしい。激流と不安。賛成した者も、確信があったわけではない。反対した者も、対案があったわけではない。ただ、変化の主導権だけは、確実に会の外にあった。
改革の列車は走り出した。乗客の中に弁護士会はいた。だが、設計図を書いたのは誰だったのか。そして、この列車がどこへ着いたのかは——次話以降で見るとおりである。
現代への視線
変化を拒む団体は、やがて変化を「設計される」側に回る。だが、外圧の要求を先取りして呑み、それを「構想」と呼ぶことは、その解決ではない。会内の合意なき数字を会の名で差し出した代償は、次の世代が四半世紀かけて払うことになる。弁護士会が社会の要望に応じる主体であり続けるための条件は二つ——危機が来る前に自らの構想を語ること、そしてその構想が、内で語る言葉と外で語る言葉の一致した、会員の合意に根ざしたものであることである。
出典・注記
- 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
- 百年正史=『われらの弁護士会史 創立百年正史』(第一東京弁護士会・2023)p.290-333, 478-479(法曹基本問題懇談会、中坊の旗と中坊レポート〔p.301-302, 319-320〕、法曹一元提言への難詰〔p.332-333〕、改革審での弁護士自治をめぐる場面〔p.478-479〕、経済界・政治の動き、臨時総会、推進本部)
- 『われらの弁護士会史(増補版Ⅱ)』(第一東京弁護士会・2003)「司法改革の全体像」「司法試験改革と法曹人口」「法科大学院」の各節(同時代記録)
- 日弁連六十年=『日弁連六十年』(日本弁護士連合会・2009)p.19-29, 203(自民党検討課題からの自治見直し削除、三者合意枠組みの否定、キャラバン隊、臨時総会の決議内容と審議時間、「激流」の一節の原文)
- 引用中の「……」は中略を示す。
- 「2割司法」は経済同友会『現代日本社会の病理と処方』(平成6年6月)の表現。なお日弁連の公式記念誌はこの流行語を用いていない。
- 臨時総会の審議時間は『日弁連六十年』が「八時間を超える」、百年正史が「9時間近く」と記す。