青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年
第1部 三百代言と呼ばれて
第2話 法服の中の屈辱——明治26年弁護士法と日本弁護士協会
明治26年5月、神田一橋の帝国大学講義室。生まれたばかりの「東京弁護士会」の創立総会は、異様な光景の中にあった。
議場には検事正が検事を従えて臨席し、場内には警部が立ち、場外は巡査が固めている。議題は役員の選び方——抽せんか、選挙か。たったそれだけのことで会場は怒号に包まれ、議長席に上ろうとした会員を巡査が押しとどめる騒ぎになった。
この年、「代言人」の名は消え、「弁護士」が誕生した。だがその門出を、登録一か月余の青年弁護士・原嘉道は醜態と見た。後年の述懐である。
「到底紳士の会合とは思はれぬ醜態を呈したことである」「吾輩は、余りの浅ましさに、涙のこぼれるを感じたのである」
(一弁会史p.22-23)
三十年後に第一東京弁護士会を創立することになる男の、これが原点の風景だった。
明治26年の弁護士法は、闘い取られた法律ではあった。当初の政府案は、地方裁判所から控訴院へ、控訴院から大審院へと登るのに各5年を要する審級制限に加え、大審院500円という法外な登録料で在野を縛ろうとするものだった。在野法曹は一致して反対し、議会では穂積陳重が論陣を張って、政府は案を撤回。成立した弁護士法の登録手数料は20円——門戸は開かれた。
だが、勝ち取れなかったものの方が大きかった。弁護士試験の試験委員はすべて司法省の高等官であり、弁護士は自らの手で後輩を選ぶことができない。帝国大学卒業者と判検事は無試験という特権も残った。そして何より、弁護士会は強制加入とされたうえで、検事正の監督下に置かれた。後年の会史は書く。
「そもそも職務上対等、対立の関係にある者から監督されるということは、性質上いかにも不合理であり、事実弁護士にとっては屈辱であり、国民にとっては、その自由と人権を守るうえで大きな支障を生じたのであった」
法服をまとっても、屈辱は法服の中に縫い込まれていた。総会の混乱の末、6月4日の役員選挙で初代会長には大井憲太郎が就いた。159票対126票。自由民権の闘士が、407名の新しい「弁護士」の先頭に立った。
もう一つ、この時代の弁護士たちを縛る条文があった。弁護士法28条は、弁護士会が議事にできる事項を三つに限定していた。つまり法定の弁護士会では、司法制度の改革も、人権の擁護も、正面から論じることすらできない。
ならば、外に作るしかない。
明治30年2月15日、神田錦輝館。全国から200余名が集まり、任意団体「日本弁護士協会」の創立大会が開かれた。発起人は鳩山和夫、菊池武夫、磯部四郎、岸本辰雄。会員はやがて全国の弁護士の約半数に達する。鳩山が機関誌『録事』創刊号の論説に書きつけた一句が、この団体の存在理由を言い尽くしている。
「代言人ヲ改メテ弁護士トシ名ハ甚タ美ナリト雖トモ其実昔時ノ所謂公事師ト何ヲ以テ異ナラン人必ス自ラ侮テ而シテ後人之レヲ侮ル」
(東弁百年史p.194所引)
名前が変わっただけでは、公事師と何も変わらない。人は必ず自ら侮って、しかる後に人に侮られるのだ——。『録事』は「在野法曹が法律問題に関する気焔を吐すべき唯一の機関なり」と名乗りを上げ、司法部は辛辣な記事をすべて花井卓蔵の筆と決めつけて「あの花井が、花井が」と目の仇にしたという。
この協会から、後の弁護士自治につながる言葉が次々と生まれた。花井卓蔵と原嘉道は、弁護人も立ち会えない密室の予審を衝いた——「今日のわが国の予審制度は暗黒の制度であるからである」。提案は全員一致で可決された。判事と同じ壇上から弁護士を見下ろす検事の席、その物理的な高低差への異議も申し立てられた(この闘いは長く続き、大正2年には東京弁護士会常議員会が「刑事法廷ニ於ケル弁護人ノ位置ヲ検事席ト同等ニスルコト」を建議している)。
そして明治33年4月、大阪での臨時総会。「弁護士会ヲ自治体トナスコト」が可決される。提案理由の説明に立ったのは原嘉道だった。
「弁護士は各自自ら治むるの能力を有するものにして、其団体を検事正の監督の下に置かざるべからざるの道理あることなし」
(一弁会史p.32)
弁護士自治——この旗が現実の制度になるのは、半世紀後の昭和24年である。旗は、ここで初めて掲げられた。さらに明治40年の総会は「司法官ハ総テ弁護士中ヨリ採用スルコト」を可決する。裁判官も検察官も弁護士経験者から採る、いわゆる法曹一元の主張であり、これもまた昭和の時代まで持ち越される長い宿題となった。
言葉だけではない。この時代の弁護士は、法廷で社会の信を獲得していった。
足尾鉱毒事件。鉱毒に苦しむ農民たちの請願行動を官憲が弾圧し、多数が起訴されると、明治31年、前橋地裁の法廷に58名の弁護団が立った。全員、無報酬である。一審は有罪29名・無罪22名。控訴審では50名中47名が無罪となった。
日比谷焼打事件。明治38年9月、講和条約反対の民衆騒擾で検挙1700余名、起訴200余名。翌年の公判には全国から169名の弁護士が弁護に立ち、首謀者とされた者たちはほぼ全員無罪となった。東京弁護士会自身も臨時総会を開き、警察官による市民への暴行を「犯罪事実」と認める決議を挙げている。監督官庁の顔色をうかがう法定の会が、権力の暴走を正面から告発した瞬間だった。
明治41年の赤旗事件では、卜部喜太郎が婦人被告人の弁護に立ち、法廷で説いた——「ただ徒らに主義者を牢獄に投じて、彼らを鎮滅し得たりとなすは大なる誤解にて」。思想を裁く時代の入り口で、弁護士は処罰の無意味を語る役回りを引き受けていた。
だが、勝てない法廷もあった。大逆事件である。明治43年12月、非公開のまま連日開廷された審理は年内に終結し、翌44年1月、幸徳秋水以下24名に死刑が言い渡された。うち12名は恩赦で無期に減刑されたが、残る12名の刑は判決からまもなく執行された。弁護人の一人、今村力三郎は書き残している。
「裁判所が審理を急ぐこと奔馬の如く、一人の証人すら之を許さざりしは予の最も遺憾とする所なり」
(東弁百年史p.267)
勝った事件は、弁護士が民衆の側に立つ職業であることを社会に刻んだ。敗れた事件は、権力を制御する仕組み——司法への国民参加——がこの国にまだ無いことを、弁護士たちに刻んだ。その両方が、次の時代の跳躍台になる。
現代への視線
検事正に監督された法定の会と、理念を語るために外に作られた任意の協会。明治の弁護士は、この二重構造で時代を切り拓いた。会の形が理念を縛るなら、理念の方が新しい器を作ればよい——団体の形より理念の中身が先である。この順序を、彼らは最初から知っていた。
出典・注記
- 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
- 東弁百年史=『東京弁護士会百年史』(東京弁護士会・1980)p.165-219, 258-267, 278-279(弁護士法制定過程、創立総会、日本弁護士協会、予審・法廷の席・自治決議、足尾・日比谷・大逆、大正2年建議)
- 一弁会史=『われらの弁護士会史』(第一東京弁護士会・1971)p.19-34(原嘉道の回想、協会の活動、日比谷焼打事件決議)
- 百年正史=『われらの弁護士会史 創立百年正史』(第一東京弁護士会・2023)p.36-42
- 引用中の「……」は中略を示す。
- 明治26年弁護士法は前年(明治25年)12月に議会可決、明治26年3月公布・5月施行。