青い風は、まだ吹いているか——弁護士と弁護士会の150年
第1部 三百代言と呼ばれて
第3話 官民孰れにも偏せず——米騒動・陪審法・一弁創立
大正7年の夏は、米の値段から始まった。
7月末、富山県魚津の浜で、漁師の主婦たちが米の積み出しを止めてほしいと願い出た。小さな騒ぎは瞬く間に全国へ燃え広がり、軍隊が出動し、新聞は報道を禁じられ、起訴された者は7,000名を超えた。
このとき、日本弁護士協会が動いた。8月、評議員会は直ちに実行委員50名を選び、食料問題・騒擾事件・人権問題の三部会に分けて、甲信越へ、東海へ、京阪神へ、中国へ、九州へと手分けして現地調査に乗り出したのである。政府を擁護するでもなく、騒擾を煽るでもない。事実を調べ、法に照らして書く。調査に乗り出した協会の姿勢を、当時の法律紙はこう評した。
「独り弁護士協会が、官民孰れにも偏せず、貴賤都鄙執れの階級にも党せず、最も公平なる立場に処して、騒擾の真相、その処置の当否、軍隊使用の得失等を実地に精査して……世道民権の為めに、吾人の感謝措く能はざる所なり」
そして9月末の決議は、軍隊の使用を「失体」、言論・集会への抑圧を「失政」と断じた。
偏らないことが、最も鋭い権力批判になり得る。弁護士の団体が社会の信頼を獲得した、その原型がここにある。
調査の力は、翌年も権力の暗部を暴いた。京都府知事らが被告となった贈収賄をめぐる疑獄事件——世にいう京都豚箱事件である。徹夜の取調べ、共同被告に「自白勧告書」を書かせて回覧させる自白強要。そして協会の調査団が突き止めたのは、京都監獄署の受付所に並ぶ奇妙な設備だった。報告書は記す。
「京都監獄署内受付所ト称スル室ニ囚人控席ナルモノアリ……高五尺六寸許幅二尺許ノ板製ノ押入形ノ箱群列ス」
検事はこの押入れ型の箱に被告人を押し込んで待たせた。府会議員の一人は真冬に8時間入れられ、気を失った。協会は大正9年、司法大臣原敬に宛てて処分要求書を提出。問題は帝国議会に波及し、検事長は辞職に追い込まれた。
だがこの時代の弁護士たちは、権力を告発するだけでは終わらなかった。裁判そのものに国民を参加させる——陪審制度の実現に、彼らは二十年を費やしていた。
もし陪審制度があったならば、このような事件は起らなかったであろう——。
大逆事件の後、そう説いたのは江木衷である。協会が明治33年に提案した陪審制度は、大正7年成立の原敬内閣でついに政治日程に上った。法制局長官・横田千之助の斡旋で、原首相は江木衷・原嘉道・花井卓蔵と一夕の晩餐を共にし、基本的な了解を交わす。在野法曹と政権との、歴史的な共同作業の始まりだった。
翌年設置された臨時法制審議会には在野から江木・花井・原嘉道・磯部四郎・鵜沢総明が主査委員として乗り込んだ。審議は荒れた。委員の一人は回想する——「議論が激しくなる時には、随分卓を叩くと云ふやうなことも度々でございまして……将に拳骨までが出んとしたやうな形勢の現れがあって」。
ここで江木は独特の戦法に出る。『陪審法に関する意見』『憲法と陪審制度の関係』——自費で刷った小冊子を次々と関係方面へ送りつけ、審議が膠着すると、あらかじめ法文の形に書き上げた「陪審制立案要綱」を江木・花井・原の連名で突きつけた。要綱ではなく条文で迫る。この戦法は、約30年後の弁護士法制定で再び使われることになる。
順風ではなかった。大正10年11月、原敬が凶刃に倒れ、推進の要を失う。枢密院は難色を示し、大幅修正を呑まされた。それでも大正12年3月、法案は貴族院の本会議にたどり着く。
その日、若槻礼次郎が休憩を挟んで4時間、違憲論を含む反対演説を打った。受けて立ったのは、前年勅選議員となった花井卓蔵。沿革から説き起こし、違憲にあらざる理由を論じて2時間。深夜、貴族院は法案を可決した。三百代言と呼ばれた男たちが、国民を裁判の主役に据える法律を、議会で勝ち取った夜である。
昭和3年10月、陪審法施行。全国の刑事法廷が改造され、12人の陪審員席が設けられた。初期のある陪審公判では、陪審員12名の職業は農業8、物品販売業3、公吏1——法の支配が、市井の人々の手に渡された。
ところが、その同じ大正12年、東京の弁護士たちは内側で割れていた。
東京弁護士会には明治40年以来、「桃李倶楽部」という派閥連合があった。統一候補を決め、連記記名式の投票で会長・副会長・常議員を独占する。当初は改革派の結集軸だったこの装置は、二十年を経て、批判者から藩閥政治にすらなぞらえられる存在になっていた。
大正11年、変化が来る。この年の新入会員は624名——現存会員1,521名の会に、実に四割の新血が一度に流れ込んだ。5月の会長選で桃李倶楽部は割れ、長老派の推す岩田宙造ではなく少壮派の推す乾政彦が統一候補となって当選する。敗れた長老派は8日後、倶楽部からの離脱と新団体「東京弁護士協会」の設立を宣言した。設立委員は原嘉道ら16名。宣言は言う。
「桃李倶楽部内に於ける近時の情勢を見るに……漸く選挙競争の弊害を再現し当初の所期と相反するものあり」
対立は法改正闘争に発展する。一つの地裁管内に複数の弁護士会を認める弁護士法改正案——世にいう分離法案——が大正12年2月に議会へ提出されると、反対派は連盟を結んで檄を飛ばした。
「嗚呼自治の観念と社会の秩序とを一般民衆に先んじて体得しつつあるべき在野法曹が自らを侮り、蠢々乎として蝸牛角上の争を激成せしめんとするは何等の醜体ぞ」
3月の東京弁護士会臨時総会は688名が出席して騒然のまま散会。法案は3月15日に貴族院を通過し、5月8日の施行日、分離派は即日、新会の設立認可を得た。5月20日、築地精養軒。187名が出席した創立総会で、初代会長・原嘉道の名が発表されると、会場は割れるような拍手に包まれた。第一東京弁護士会の誕生である。東京弁護士会からの脱会者は385名にのぼった。
この分裂を、後の歴史はどう見たか。東京弁護士会の百年史は、民主的な運営を求める勢力と封建的な支配を守ろうとする勢力の激突と描く。去った側の原嘉道には、高遠な目的で集った団体が乗っ取られたという無念があった。同じ出来事に、二つの物語がある——派閥の対立とは、いつの時代もそういうものである。
ただ、原嘉道が新しい会に何を託したかは、本人の言葉で残っている。昭和6年に盟友・花井卓蔵が急逝した後、原がひとりで書き残した「第一東京弁護士会記」の一節である。
「惟ふに弁護士会は法律的団体なりと雖も道義的精神に拠り結合するにあらざれば久遠の安固進展を期すへからす」
(一弁会史p.104)
分裂という負の出来事を、「道義的精神による結合」という理念の宣言に転化させる。一弁の入会宣誓が今も「本会創立の精神」の尊重を求めるのは、この一文に発している。
現代への視線
団体の新設は、逃避ではなく理念の再結晶であり得る。原嘉道たちがそうであったように、問われるのは「何から離れたか」ではなく「何に拠って結合するか」である。そしてもう一つ。官民いずれにも偏せず、事実と法だけで語る——弁護士の団体が社会の信頼を得る道は、百年前にすでに示されていた。
出典・注記
- 発言等の引用の末尾に付した( )は出典を示す(略称p.頁)。頁は刊本の印刷頁による。
- 東弁百年史=『東京弁護士会百年史』(東京弁護士会・1980)p.207, 304-311, 335-339, 371-382(米騒動、豚箱事件、陪審法、分裂)
- 一弁会史=『われらの弁護士会史』(第一東京弁護士会・1971)p.36-47, 62-85, 90-106(米騒動、陪審法成立過程、分裂と分離法案、一弁創立、会記)
- 百年正史=『われらの弁護士会史 創立百年正史』(第一東京弁護士会・2023)p.2-8, 48
- 引用中の「……」は中略を示す。
- 米騒動の検挙者数は史料により食い違う(検挙8,185名・起訴7,708名〔東弁百年史〕、検挙2万5千人超〔一弁会史〕)ため、本文は起訴者数のみ記載した。
- 陪審法は大正12年3月21日議会通過、4月18日公布(法律第50号)、昭和3年10月1日施行。